トウコはよろよろとショーケースのガラスに歩み寄った。その向こうに手をのばそうとして――思わず声をもらす。
　やはり――やはりそうだ。
「……ない。ないわ！」
　喪服の女性が悲鳴をあげた。先ほどまでの勝ち誇った表情は完全に失せ、鬼気迫る形相でガラスに張り付く。ガラスで仕切られた小さな空間には、壁を覆った赤い布がしずかに暗闇のなかで深い色をはなつだけで、喪服の女性が云っていた『痩せっぽち』受付嬢などどこにもいなかった。喪服の女性は奇妙な声をもらしながら、拳でガラスを打ち破る。床一面にガラスの破片が散乱する。暗い――光の落ちた部屋、タカハシを模した陶器の人形、赤い壁、そうしてなにもない、空白のショーケース。喪服の女性はガラスの破片のなかに崩れ落ちる。
「そんな――莫迦な」
「……マユ、さん」
　あなたの望むトウコはそこにはいない。トウコはそう心のなかでささやいて、喪服の女性に歩み寄った。喪服の女性は作り物のような瞳で、あんたなにをしたのとつぶやく。
「彼女のなかにもどったんだ。彼女の記憶がね」
　その時澄んだ声が身体にまとわりつくような部屋の空気をゆるがした。
「彼女は取りもどしたんだよ、本当の自分を」
「そんなのウソだ！」
　喪服の女性の反応は早かった。身を起こしてトウコにつかみかかり、ショーケースの床にトウコの上半身を押しつける。トウコが悲鳴をあげるまもなく、喪服の女性はトウコに馬乗りになり、その喉を信じられないくらい強い力で締め上げた。トウコは指一本動かすこともできないまま、ただ大きく目を見開いて喪服の女性を見た。
「こいつが……こいつがなにもかも滅茶苦茶にしたんだ！」
「まだ判らないのか。彼女はトウコになりたいと願っていたわけじゃない」
　声の主の気配を感じた刹那――トウコは部屋に風がもどるのを感じた。それは思いのほか懐かしい、そしてやわらかな気配だった。次の瞬間にはトウコのうえに喪服の女性の姿はなく、喪服の女性は声の主の押さえつけられて怖ろしい形相をうかべていた。陶器のものとは思えない、感情をむき出しにした表情でトウコを睨み付けている。トウコは大きく息をして、あぁこの呼吸をする感覚を長いあいだ忘れていたのだと思った。
「タカハシ……くん。どうしてここに」
「やあ、来るのがすっかり遅くなったよ」
　トウコに名前をよばれて、声の主――タカハシは遠い記憶とおなじ陽気な笑みをかえした。
「ここまでたどり着くのに予想外に時間がかかったんだ。サカナの餌みたいに粉々にされてあちこちの部屋にばらまかれていたからね」
　離せこの野郎。そう叫ぶ喪服の女性を片手でだまらせながら、タカハシはもう片方の手でトウコが立ち上がるのを助けてくれた。
「これだもんな。――でもまあ、キミが無事でよかったよ。それにしても」
　タカハシは床に横たわったままのタカハシを模した人形をしげしげと眺めた。
「よくできているね、この人形。キミが作ったの？」
「そんな。あたしは」
「冗談。ちゃんと判ってるよ、キミがだれなのかも、なぜここにいるのかも」
　トウコは素直にうなずきたかったが、それでも訊かずにはいられなかった。
「待って。あなた……タカハシくんよね？」
「そうだよ。もっと正確に云えば、トウコの生前に陶器の人形が体内に溜め込んだタカハシの記憶だけどね。本当のタカハシはちゃんと現実にいる」
　それからあいつが、キミをトウコに仕立て上げるために陶器の人形が作った、タカハシの人形。タカハシはそう云って自分そっくりな人形をゆびさした。
「それじゃああたしは」
「キミの本当の名前はマユだよ。ワタナベマユ――思い出した？」
　タカハシはトウコ――本当のマユを指さした。それはタカハシに云われるまえから、マユには判っていたことだった。
「なんでさあ。あんたなんか、所詮トウコの記憶の一部じゃないか！」
　タカハシの腕のしたで黒衣の女性――偽物のマユが叫んだ。
「なんでこんな女の味方をするの？　なんで意地悪するのよ。あの痩せっぽちをどこに隠したの？」
「ボクは隠しちゃいないよ。彼女はもとの居場所へ帰ったんだ。だからもう、ここにはいない」
「ウソ、そんなことがあるはずが」
「じゃあ、ここにいる本物のマユさんの心をもう一度支配してみればいい」
　タカハシの言葉に黒衣の女性は動揺した。
「――なによ、そんなことくらいあたいにだって判ってたわよ。こんな役立たず、あたいの方から願い下げだわ。まったく――莫迦にして。トウコの人生のつづきを夢見ることがそんなにいけないの？　少しはあたいにだって、望みを叶えるチャンスをくれたっていいじゃないのさ！」
「トウコに似せた器を用意して、それでトウコの心が宿ってくれるなら、マユさんだってとっくにトウコになっていたさ。君のなかにはトウコの過去そのものが詰まっていたんだから。君には充分すぎるほどチャンスがあったはずだ」
「なにが……なにがあったっていうの？」
「トウコの死と向かい合う時間だよ」
　タカハシの目がすこしだけ淋しげに揺れた。マユはタカハシの腕のしたで身じろぎもできないでいる黒衣の女性を見ているうちに、もう許してあげてと云いそうになった。
「そんなもの……あの娘は殺されたのよ、あんたが教えた絵に。それで平気なの？　あんたこそ、トウコを殺した張本人じゃないの」
　そう云った黒衣の女性の声はふるえていた。マユはぼんやりと、この人はこれっぽっちもそうは思っていないのだと考えた。
　長い沈黙のあと、タカハシはぽつりと、平気なわけないだろうとつぶやいた。その刹那――黒衣の女性の瞳にやどっていた憎しみをたたえた光が失われたような気がして、マユは二人から目がはなせなかった。
「じゃあどうして君はマユさんに、張本人であるボクそっくりの人形を与えたりしたんだい。君は君の考えるトウコを演じればよかったはずだろう？　なにもマユさんの人生を奪う必然などなかったはずだ」
「だって……しょうがないじゃない。あたいにはこの娘しか」
「マユさんは君の物じゃない。まして――トウコだって、君の思い出の構成品でもなければ、君の夢のなかの主人公でもないんだ。君は……このマユさんが自分とおなじトウコを見ていたと勘違いした。トウコとおなじ未来を夢見ていたのだと誤解した。だからマユさんに、都合よく改ざんしたトウコの過去を植え付けることで、マユさんがトウコになってくれると信じようとした。あまつさえ――マユさんが君の希望にかなわないと判ると、それをマユさんのせいにした。あるいは自分で作り上げた、タカハシという器を持っただけの陶器の人形の質のせいにした」
　黒衣の女性は云い返すこともできずにうなだれている。マユは何度タカハシを止めようとしたかしれなかった。彼女は決してタカハシには逆らえない――マユがタカハシに手をのばしかけたとき、タカハシがマユの方を見た。その目が、いいんだと語っていた。タカハシの唇が静かに動く。言葉にならない声――こうしなければ、彼女は本当の自分を愛せない。
　ホントウノジブンヲアイセナイ。
　涙がこみあげた。亡くなった姉――やさしかっただけの、希望に満ちあふれていただけの、いつでも前に進みつづけていただけのトウコ姉さんのことを想う。マユはその場に崩れそうになるのを懸命にこらえた。あたしは……あたしは。姉さんのことなどこれっぽっちも知らなかった。どこへたどり着こうとしていたのか。タカハシになにを見ていたのか。どんな想いで絵を描きつづっていたのか。なぜあたしの前であれほど強い姉でいつづけたのか。姉さんがどんな『トウコ』であろうとしたか。
　判るはずがない。マユは可哀想な陶器の人形のことを想った。姉さんの本当の心などだれにも判りはしない。でも……判ろうとすることはできる。記憶をそのまま抱えようとせずとも、トウコという器を身にまとわずとも、トウコの人生をやり直さずとも。トウコの人生に憧れるのではなく。トウコの夢を叶えるのではなく。
　まして……トウコ自身になるのではなく。
　ああ――マユは身体がゆっくりと熱を持ちはじめるのを感じた。長いあいだ離ればなれだった自分の心と気持ちが、気の遠くなるような時間をかけて再びひとつに戻るような、懐かしい感覚。
　タカハシは黒衣の女性を苛めているわけでも、彼女のとった行動に腹をたてているわけでもない。タカハシはマユを叱ってくれているのだ……
「君は自分が許せなかった。あの男の子の人形が大好きで大好きで、それでも彼の身体を粉々に砕いて、トウコの記憶を抱いて生きることを選んだ。なのにトウコの人生はなかばでついえてしまったのだから。でも――まだ遅くはないんだ。君がトウコを愛しつづけているように、男の子の人形だって、たとえ欠片になっても、それでも君のことを愛しているんだ」
　タカハシの言葉がすこしずつ穏やかさを持ちはじめる。タカハシは床に膝をついて、そっと黒衣の女性から離れた。黒衣の女性の目はぼんやりとタカハシの人形を見ている。床に冷たく投げ出された陶器の人形を見つめている。
「この人形は君だけを愛しつづけている。君が砕いた破片を捨てられなかったように――だからタカハシという殻とタカハシの記憶を与えられてなお、彼はタカハシにはなれなかった。彼は全身全霊をあげて君だけを想いつづけているんだ」
　タカハシは口をつぐんで長いあいだ黒衣の女性を見つめたあと、ゆっくりと、そして確かな口調で云った。
「君の居場所は、トウコの記憶でもトウコの未来のなかでもない。君は――トウコの記憶を抱えてなお、君として歩いていける場所があるんだ」
　黒衣の女性はぎこちない動作でたちあがり、タカハシの人形に歩み寄った。もう言葉も発しなかった。タカハシはいつの間にかマユのそばにいて、じっと黒衣の女性を見守っている。マユはタカハシに寄り掛かり、気づかれないようにそっと涙をぬぐった。黒衣の女性は静かにタカハシの人形の上半身を抱き起こして、引きずりながらショーケースに向かう。ガラスの破片を払って、タカハシの人形を横たえてから、黒衣の女性は一瞬だけマユを見た。あるいは……マユを通して、遠い記憶のなかのトウコに想いをはせたのかもしれない。マユがありったけの感情を込めて微笑みをかえすと、黒衣の女性は表情をやわらげて、タカハシの人形の傍らにうずくまった。そうしてそれきり動かなくなる。タカハシの人形の頬にふれた、ゆったりと伸ばした右手。なにかを問いかけるように首をかしげた表情。大きく見開いた、照明の光をかすかに宿した漆黒の瞳。
　タカハシは小さくため息をもらして、やっと終わったよとつぶやいた。それから重い足どりでショーケースにちかづき、音もなく白いカーテンを閉めた。動かなくなった二対の人形の安らかな表情や赤い布の壁がその向こうに消える。タカハシの横顔をのぞき込んでみると、目もとにうっすらと涙がうかんでいた。
「……可哀想」
　長いながい沈黙のあとでマユはそうつぶやいた。ごめんなさい、あたしのせいで――そう云いかけて、タカハシはそんな言葉を待ってはいないのだと思いなおす。
「大丈夫だよ。君は心配しなくていい」
　タカハシはついと顔をあげて、先回りをしてそう云った。マユの記憶にある、いつもトウコの傍にいたタカハシのおだやかな表情が目の前にある。もう涙のあとも残ってはいなかった。
「ここにいた彼女は、本当の彼女じゃない」
　うん。マユはただ小さくうなずいた。
「現実にもどれば、君の部屋で彼女が待っているよ。たとえ――もう二度としゃべることはなくても」
「終わってしまったのね。なにもかも」
　マユは白いカーテンに凭れかかり、大粒の涙をながして泣いた。声のかぎりに、何度もなんども姉のトウコの名前を呼んだ。長いあいだ忘れていた感情――トウコの死をしらされた時から途絶えたままだったマユ自身の想いが心に止めどなく沸き上がり、マユの心を激しく打った。
「……さあ。帰ろう？」
　タカハシに肩をたたかれて、マユは小さくうなずいた。そうして、カーテンを隔てて今は眠っている陶器の人形のことを想う。どれだけ歪んでいるかなど関係ない――彼女はたしかに、強い想いで生きることを望んでいたのだ。今、その人生はあたしのもとにある。あたしには、あたしの人生がある。
「――あたしね」
　マユはしずかにカーテンから離れ、タカハシを見た。タカハシは微笑んで、なに、と訊いてくれる。
「トウコ姉さんのこと忘れないわ。それから、タカハシくんのことも」
「信じるよ」
　マユは涙をぬぐってから部屋をでた。扉のところでショーケースを振り返り、さよならトウコ姉さんとつぶやく。そんな言葉が聞こえたのかタカハシは長いあいだ扉のまえに佇み、部屋のなかの様子をしずかに窺っていた。マユがタカハシの名前を呼ぶと、タカハシは破顔して、そうして樹の扉をしめた。

　『標本室』をあとにして薄暗い廊下にもどり、まばらな照明のしたを入場口へと向かう。マユもタカハシも一言も口をきかなかった。二人の歩調にあわせて、深いじゅうたんが擦れるようなかすかな音をたてた。訪れたときのような重苦しい空気もそこここに蔓延っていた闇も消え去っていて、おなじ廊下だとは思えなかった。
　なにより、あれだけ延々と等間隔にならんでいた樹の扉が、今はひとつもない。のっぺりとした壁が天井の明かりに照らされてセピア色に光っている。マユはとてもはっきりとした意識のなかで、黒衣の女性がもとの陶器の人形にもどったときに、彼女の持っていたトウコの記憶も陶器の身体のなかに還ったのだろうと考えた。
「……彼女の云ったことは」
　タカハシは長い時間のあと、わずかに歩みをゆるめながら、陶器の人形のことを彼女という呼び方で話しはじめた。
「全部ほんとうだよ。ボクはトウコを死なせた」
　彼女はトウコについては、なにひとつウソはつかなかった。タカハシは苦しそうにそう付け加えた。
「そのうえボクは彼女まで苦しめ、その結果彼女はマユさんの人生を奪ってしまった」
「それは違うわ」
　マユは足を止めて、タカハシの背中に語りかけた。タカハシは振り返らずに、廊下のなかばで立ちすくむ。
「彼女をあんな風に導いたのは、トウコ姉さんの過去でもタカハシくんの記憶でもない。ましてトウコ姉さんの死なんかじゃない。彼女は……彼女自身が選んだのよ。タカハシくん、さっきそう云ったじゃない？」
「そうだね」
「それに……」
　それに。マユは迷って、結局言葉にはできなかった。マユが現実にもどって、この思い出博物館がなくなれば、タカハシはもとの陶器の人形のなかにもどるしかない。そこでタカハシは、トウコの過去が浄化され昇華されるまで、果てのない時間のなかでトウコが命を断ったことに苛まれつづけるのだから。せめて今だけは……
「それに？」
「ううん。なんでもないの」
　タカハシは振り返り、トウコを見た。タカハシの目にうかんだ光は澄んでいたが、とても困惑しているように見えた。
「隠してもダメだよ。彼女の陶器の身体を壊せば、ボクは解放されると考えているんだろう？」
　マユは素直にうなずいた。
「そんなことを、ボクが望んではいないことも」
「ええ」
「……歩こうか。ロビーまでもうすこしだよ」
　タカハシが差し出した手に、マユは迷うことなく触れた。心に力をこめて、廊下を再び歩きはじめる。
「――あのね。トウコだった間、なにをすればいいのか、どんな風に生きていけばいいのか判らなくなっていたの。なにかをしなきゃいけないって――ずっと焦っていたわ。たしかにあたしは、見えない陶器の人形の声にせかされていたんだと思う。こんなはずじゃない、こんな姿がトウコの未来じゃないって。でも、だれの名前を語っていても、あたしはあたしとして生きることはできたはずよね。それができなかったのは、ワタナベマユっていう心を見失ったのはあたしの弱さのせいだと思うの。あたしは彼女の力に甘えて、思考停止する安易な道を選んでしまった。あたしがもっとしっかりしていれば……彼女もあたし自身も、トウコ姉さんを失ったことをもっと直視できたのかもしれない」
　だからあたしには彼女を責めることなどできない。そう云ったマユにタカハシは黙ってうなずいてくれた。
「たとえもとの自分にもどれても、ワタナベマユって名前を取りもどしても、まっすぐに生きていけるかどうかは自分次第よね。明日になれば、おなじくり返しの生活がはじまるかもしれない。でも今はそれでいいと思えるの、もしもあたしがあたしでいられるなら。あたしは自分の意志で悩みたい。自分を自分として認めてあげたい。ワタナベマユのままでいたい」
「――いいんだよ、きっとそれで」
　目があうと、タカハシはやさしく微笑んでいた。
「ねえ、あたしはこの思い出博物館をでて現実に帰るのね」
「そうだよ。マユさんが住んでいた家や街は彼女がマユさんの心のなかに作ったまやかしの場所だから」
「そしてこの博物館は、陶器の人形の身体なのね」
「マユさんが本当の自分に帰り着いた瞬間に、この建物の外側の世界は壊れてなくなってしまった。だからこの博物館は、彼女であるとともにマユさんの心でもあるんだ。ここを出て、マユさんの本当の時間を取りもどすんだ」
「その時あたしは……」
「ボクには外のことは判らないよ。どれだけ時間がたっているのか、どこにいるのか」
「でも少なくとも、あたしはトウコ姉さんが亡くなったあの日には戻れないのね」
「ああ。長い長い年月をついやして、やっとマユさんは自分の時間に帰ってきたんだ」
　タカハシは一瞬うつむいてから、今までのキミはまちがいじゃない、とつぶやいた。
「少しくすぐったいね。――ねえ、あたしは現実にもどっても、今のことを忘れない？」
　タカハシはマユの言葉に力強くうなずいた。
「忘れないよ」
「……ありがとう」
　長いながい廊下を歩きつづけてようやく入り口のロビーにたどり着く。背の高い天井や階段や壁に囲まれた空間はひっそりとしずまり返っていたが、廊下とおなじでマユを窺うような気味の悪い翳は形をひそめていた。
「そうだ、すっかり忘れていたわ。受付の女性がいない」
　マユは陶器の人形がショーケースに閉じ込めたはずの、消えてしまった黒衣の女性を思い出して声をあげた。
「心配ないよ。あの陶器の人形がマユさんに語っただろう、受付の黒衣の女性はワタナベマユの記憶だって。マユさんが記憶を取りもどしたから」
　だから消えてしまった。マユはゆっくりと息をすって、両手を胸にあてた。そうして、儚くて今にも消えてしまいそうで、淋しげだった黒衣の女性のことを想った。長い――本当に長いあいだ、彼女はトウコの葬儀でまとった黒衣さえ脱げないまま、ここでマユが記憶を取りもどすのを待っていたのだ。
「さあ、胸をはってお帰り」
　タカハシはいつもの陽気な笑顔にもどり、マユの背中を押した。
「トウコの記憶をかかえて、それでもワタナベマユとして生きていくんだ」
「うん。……さよなら」
　マユはゆっくりと思い出博物館の入場口の扉に歩み寄り、ノブを回した。ひんやりと肌を差す陶器のような冷たさにも動じずに、扉をゆっくりと引く。そのむこうに広がった四角い空間は白くつよい光でみちていた。マユは身震いを感じながら一歩進もうとして、後ろをふりかえる。
　タカハシは斜めに差し込んだ光のなかに笑いながら立っていた。
「ありがとう、タカハシくん。それからごめんね。あたし、少しでもあなたのせいにしたこと」
　白い光はマユの体内に浸透し、マユの心をゆっくりと外の世界へとなじませていく。長いあいだ忘れていた、やさしくて、心強くて、少し不安な――けれどたしかな時間の流れと、確固たる存在感。それにつれて、タカハシの姿はしずかに薄れていく。洋館のロビーの空間が、鈍く淀んでいた空気がしだいに光に溶けていく。
　もうタカハシに届くかどうかもわからない。それでもマユはかまわずに言葉をつづけた。
「あたしの世界で、きっとあたしはあなたにたどり着くわ。そうして……あなたと一緒に」
　ほとんど見えなくなりながら、それでもタカハシは小さく首を振ってマユの言葉を制した。それからなにかを云った。その声はもうマユには届かなかったが、マユはタカハシにうなずき返した。タカハシはたしかに、おかえりなさいと云ったような気がした。
　マユはきびすを返して、もう一歩光のなかへと進んだ。そして二度と振り返らずに、後ろ手に扉をしめた。

−　完　−