「アラブ」は、なんでしょう、1990年代の前半に書いた小説ですが、いつだったか、定かではありません（＾＾；わたしが初めて行った競馬場は、地元の姫路競馬場（兵庫）ですが、馬券売り場の雰囲気はどちらかというと上山競馬場（山形）です。今はもう、口頭で買うっていうのもないし、いろんな種類の馬券が増えましたからね……
でも、地方競馬って、ふっと時々行きたくなる場所です。
カレンダーの暦はもう秋も終わりを告げていたが、昨夜からの激しい雨があがった後の午後の陽射しは、夏さながらの強さをほこっていた。
真崎誠司は、外出する際にいちどは羽織ったものの脱いだ上着を腕にかけて、いつもより早い歩調で競馬場の入場門に足を向けた。交差点で警備員が交通規制をおこなっている。横断歩道を渡り切ったところで、今出てきたばかりの自分の家を振り返った。二十七年間いちども移り住むことなく暮らしつづけた家は、いつもに増して、競馬場周辺の混雑とは不釣り合いな様子で佇んでいた。
誠司の両親は競馬への興味をいっさい持ち合わせておらず、家を購入する際も、競馬場の近隣ということでの生活の支障について、想いもよらなかったらしい。母親は開催日のたびに、周辺の混雑を避けてそそくさと買物に出掛けたし、父親は父親で、仕事の休みと重なった日には近所のパチンコ屋に入りびたる。今朝も誠司が起きると、すでに人の気配はなかった。
駐輪場のわきを抜けて競馬場に足を踏み入れると、今朝までの雨が残ったロータリーには電車の駅と競馬場とをむすぶ送迎バスが二台止まっていた。バスの前で運転手が煙草を吸いながら熱心に話し込んでいる。誠司は入場券の券売機にできた緩慢な列の最後に並んで、競馬場を取り囲んでいる潅木をながめた。厚い眼鏡をかけた中肉中背の男が、おなじような年格好の男に、今日のメインはカタいでぇと演説ぶっていた。
男たちの話が馬券の配当金についてだと見当くらいはついた。誠司はこれまでいちども競馬場に立ち入ったことはなく、それ以上男たちの会話は理解できなかった。
そもそも今朝になってなぜ突然競馬場に行こうと思い立ったのだろうと、誠司は自問した。季節外れの陽気のせいか、いつにない体調の良さのせいか。いずれにしろ、家を出て初めて競馬を観ることに考えが至ったわけではない。朝ベッドから起き出したときから、そうすることを心に決めていたのだった。
券売機の順番がまわってきて、誠司は入場券を一枚買った。二人連れの男の姿はすでに見えなかった。誠司はためらいながらも入場門に向かい、地味な制服姿の若い女性に入場券を手渡した。場内に入るとすぐに群衆や罵声のなかに投げ込まれるかと身構えたが、競馬新聞を売っている屋台が数軒並んでいるだけで、観客の姿はほとんどなかった。ただ、遠くの方で場内スピーカーを通した早口なアナウンスが絶え間なく流れているのが聞こえた。
テレビや新聞で日常的に取り上げられているのが中央競馬で、この競馬場が位置づけられている地方競馬が人気も売上高も中央競馬とははるかに隔たっていることくらいは知っていた。けれどその絶対値となると、目のまえの風景が普通なのか稀れなのか、想像もつかない。誠司は舗装された誘導路を水たまりを避けてゆっくりと歩きながら、陽気のなかに適当な居場所をさがした。
ここ数週間はずっと呼吸が楽で、数年来の肺水腫の症状は影をひそめていた。肺水腫じたいは重症ではなく、主治医と相談して入院は見合わせたし、勤め先の市役所の業務も残業をしない程度であれば健康な人々と変わりなくこなせた。けれど肺水腫の原因である幼い頃に治癒したはずの先天性の心臓弁膜症が、肺水腫の悪化によって再発することを恐れて、誠司はだれに云われるともなく息をひそめるように暮らしてきた。
ひどいときは一週間の疲れで週末は起き上がれないことさえあったが、このところ肺水腫の症状が特に良く、昨夜も充分に睡眠を取ることができた。週のなかばの祭日というせいもあるが、今朝は食欲もあったし、身体をずいぶん楽に動かすことができた。
入場門を抜けてしばらく続く生け垣が途絶えると、目のまえに楕円形の競走コースがあらわれた。誠司の立っているのはコーナーから直線に差しかかるあたりで、鉄柵のむこうにのびる砂の馬場は雨に濡れて深い色にしずんでいた。誠司の目のまえには、�Aの数字がついた赤白の縞模様の柱が立っていた。コースの中には巨大な電光掲示板が立っていた。
誠司はコンクリートの照り返しに負けないよう強く地面を踏み締めながら、鉄柵に近づいた。かすかに土の匂いがした。身体が軽く、いつもは苦痛に感じる陽射しも心地よかった。左に向かってのびている直線コースがゴールになっていた。直線に沿うように五階建ての観客スタンドがそびえている。場内のアナウンスが高いところから降り注いでいた。スタンドとコースのあいだの観戦場所に散らばった観客はみな、思いのほか穏やかだった。
「競馬場、か」
頬に風を感じながらそうつぶやいた時、観客が悲鳴のような声をあげた。次いで、誠司は遠くの方から地を震わせるような音を聞いた。砂の馬場を振り返った刹那、視界のなかに十頭ちかくの競走馬が現われ、コーナーから直線に向かって物凄い勢いで駆け抜けていった。騎手の声やムチをふるう鋭い音、競走馬の四肢が地面を蹴るたびに跳ね上がる泥の固まりに圧倒されながら、誠司は競走馬と騎手が一体となった様子を息を殺して見送った。ほんの数秒後には、競走馬はひと塊のシルエットと化して、水しぶきのむこうにかすんでしまった。目をこらしてみても、勝った馬を判別することはおろか、何頭が走っていたかさえ判らなかった。
やがて場内のアナウンスが勝った馬の名前を何度も告げた。観客は打って変わって騒めきに包まれていた。まもなく電光掲示板に着順が表示された。誠司はぼんやりと、掲示板にともった『審』という文字を見つめていたが、目のまえで馬の鼻息が聞こえて我に返った。
鉄柵の向こう、砂の馬場の半ばで、馬が一頭だけ競走を中止していた。コーナーから直線に入る手前で、�Aの柱よりも数メートル手前だった。腹に７番のゼッケンをつけた鹿毛色の馬で、下馬した騎手が手綱をとって、馬の首のあたりを撫でていた。馬は苦しそうに首を上下させ、ときおり前脚で地面を叩いている。誠司でさえ、７番の馬が後ろの右脚をかばっているのが見て取れた。
誠司は鉄柵にもたれかかって、落ち着きのない馬の目や口元からしたたる泡を凝視した。
「やってしもたか」
いつのまにか誠司のよこに男が一人立っていた。男は自分の独り言には気づいていないのか、７番の馬を険しい表情で見ていた。騎手が馬の腹のあたりに手をやり、鞍を外した。露わになった馬の胴は想像よりもずんぐりしていて、背中から湯気が立ちのぼっていた。男が、あかんなぁこれは、とつぶやいた。ポロシャツの上にくたびれた上着を羽織った、背の低い四十歳くらいの男で、丸めた新聞を左手に握りしめていた。
「飛びが大きいだけかとおも思たけど。重たいのが嫌なだけやったら、あんな怯え方はせぇへんからなぁ。窮屈やったかもしれんけど、自分でやったんや」
「怪我したんですか？」
誠司がそう訊くと、男はようやくその存在をみとめた様子で、怪訝そうに誠司を見た。
「兄ちゃん、故障した馬見るの、初めてか」
「……ええ、まあ」
誠司はあいまいにうなずいたが、男は別に誠司を小莫迦にするようなこともなく、視線を故障した馬にもどした。
いつのまにか調教師や厩務員が馬のところにやってきていて、足元を診ていた。騎手は鞍とゼッケンを手に引き上げていく。まもなく馬運車が側道を走ってきて、馬を積んでもと来たほうへ帰っていった。
周囲を見回してみると、誠司ととなりの男以外には、目のまえの顛末に立ち合った者はいなかった。
「ええ気分はせんなぁ、毎度のことやけど」
「どうなるんですか、あの馬」
誠司は男が案外親切に答えてくれるかもしれないと思い、素直に訊いてみた。
「気の毒やけど、あれは牧場に帰って治る類の骨折やないわ。レースが終わって何日もたたんと骨折に気づかんような軽いのもあるけどなぁ。スマノダイドウの血が入っとるから血統的な魅力はあるし、重賞のひとつも取れたかもしれんけど。兄弟が走ってないからなぁ。諦めるんとちゃうか」
「諦めるって？」
「……まあ、薬殺っちゅうことや」
「薬殺？ 骨折したくらいで殺してしまうんですか。でも……サラブレッドって、けっこうな値段がするんでしょう」
男は表情をゆるめて、ここで走っとるのはサラブレッドやないんや、と笑った。
「アラブ、ちゅう種族で、簡単に云うたらアラビア馬の血をひく一族や。正確には、アングロアラブっちゅうんやけどな。サラブレッドは― どう云うたらええんかなあ、ヨーロッパの馬にアラビア馬の血をまぜて作った競走のための馬やな。まあ……日本のアラブも、サラブレッドの血を混ぜとるから、似たり寄ったりと云えんことはないか」
男はうまく言葉を選べないもどかしさのせいか、一度云いよどんでから、
「サラブレッドが見たいんやったら、この辺りやと中央に行くしかないわ。ここはまだアラブしか走ってない」
と締めくくった。
「……アラブ」
誠司は心のなかで男の言葉をつぶやいた。
不意に強い風が吹き、土の匂いが巻き上がった。サラブレッドとアラブという、馬という生物を分類する二つの言葉が、特別な意味を持つ呪文のように思えた。物心がついたころから心臓と呼吸器の病をわずらい、息をひそめて生きてきた自分と、肉体的にハンデを負うことなく暮らしている人々。そのどちらがアラブで、どちらがサラブレッドなのかと、自分に問いかけてみる。けれど簡単には答えは見つかりそうになかった。
場内にファンファーレが鳴り響き、軽快な音楽とともに数頭の競走馬がコースに登場した。誠司の立っている場所からは、騎手の勝負服の色や馬の毛色の違いしか識別できなかった。厩務員が引き綱を解くと、競走馬たちは騎手の合図にあわせてコースに散っていった。場内アナウンスが各馬の名前を告げている。誠司には、どの名前もおなじようなカタカナの羅列にしか聞こえなかった。
大半の馬は左回りに駆け出して、一頭また一頭と、誠司のまえを通りすぎていった。誠司は鉄柵から身を乗り出して、競走馬を見送った。雨が残っている馬場状態をたしかめるようなゆっくりとした脚さばきは、ほんの十分ほどまえに目のまえを通り過ぎたレース時の躍動感にくらべると軽快で、ダンスを踊っているように見えた。
「― 地方の二流馬なんかは、金目当てで毎週のように使われとるから、みんなカリカリきとるんや」
誠司が競走馬の姿に見惚れているのだと思ったのか、男がしゃべりはじめた。
「どいつもこいつも、半分故障みたいな状態で走らされとる。調子もへったくれもないわなぁ。調教師もそれを判っててつこ使とるんや。だからレースになると、新聞でマルばっかりついた馬があっさり勝つ。トラックマンも莫迦やないからな」
「どうして、そこまで走らせるんですか。休ませてやれば、もっといい成績が残せるかもしれないでしょう」
「今のは、弱い馬のことや」
男は苦笑した。
「なんぼ休養しても、弱い馬は弱いままや。そやし弱い馬でもそこそこ馬主が食える仕組みになっとるんや。レースに出るだけで金が貰えるっちゅうてな。休ませとったらタダ飯食うばっかりやからなぁ」
男は競馬新聞をひろげた。紙面の数字や文字などの無数の活字の上に、赤いペンでいろんな数字が書きなぐられていた。誠司は新聞を横目でながめているうちに、七番の馬に赤いペンの印が集中していることに気づいた。
「さっきの馬、な。負けるはずなかったんや、ちゃんと四本の脚で走っとったらな。デビューしてから五連勝やった。このレースは昇級戦やったけど、他の馬とはちょっと格がちごてる。敵はお天道様だけっちゅうわけや。今まで一回も、重い所を走ったことがなかったからな。それでも陣営が来週の特別やのうてここをつこ使たんは、オープン入りする前に、雨でどれだけ脚色が違うか試そうおも思たんやろ。でもあの馬は調教からは想像を絶する下手さやった。とね当歳の時に、なんかあったんかもしれん」
誠司は黙って男の言葉を聞いていた。
「兄ちゃん、次のレースは決めたんか？」
「……いえ。新聞も持ってなくて」
「新聞なんかのうても、馬ぐらい選べるがな。今さっき熱心に見てたやないか。強い馬は見た目もしっかりしとるもんや」
誠司が、目の前を通り過ぎた馬のなかでは３番の馬がよく見えたことを告げると、男はにんまりと笑った。
「兄ちゃんにも良く見えるか」
男は新聞をめくって次のレースの欄を指差しながら、誠司を促して、鉄柵ぞいにスタンドのほうへ歩きだした。
「昔は先行して、そのまま押しまくるようなレースをしとったんや。歯切れのええ馬やった。それが歳を食って、行けんようになってしもた。連闘で使ってきとるけど、人気がないのは前走負けすぎたせいや」
「じゃあ、駄目なんですか」
「あながちそうでもない。連闘の割に追い切りかけてきとるんや。腹まわりがずいぶんスッキリしてきたなぁ。厩舎側はまだ重いゆうてコメントしとるけど、狙っとるはずや。それにこの馬の騎手は、今日だけで二勝しよった。一年に指の数ほどしか勝てん騎手や。これで体重が絞れとったら、この馬と心中してもええわ」
男はおどけた口調でそう云うと、新聞をまるめながら声をたてて笑った。
スタンドの横手にある入り口から入ると、太陽にさらされた外とは一変して、陰湿な空気が漂っていた。蛍光灯がまばらに灯っただけの通路には、男とおなじように競馬新聞を手にした人々がたむろしていた。通路の左側には馬券の投票窓口が長くのびていて、ガラス窓のなかには陰気な表情の女性たちが並んでいる。にごった空気が地面のあたりでよどんでいて、祈祷のような灰色のざわめきが満ちていた。
「後半」へ |｢Fancy sweetiesの部屋｣|しょーせつの引き出し||競馬の部屋|